3.8.10

インターネット、情報、再考。

Shibuya, Tokyo
今日は電車の中で、役人による批判的書込みなどで話題になった長妻昭氏のWikipediaページを読んで、ふと"ソース"について考え直していた。

タイトルの割に大した内容はないんだけど。

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『ソース(情報元)を明らかにする』というのは学術論文の基本中の基本であるし、情報の正当性を述べる上で必須の手順だろう。


Wikipediaといえば、言うまでもなく現代における最大の辞書であり、お馬鹿な学生がそのままコピペしてレポートを作ってしまうように「真実」として信じられている情報源だ。

では、その情報はどうやって作られているのか。

これも有名な話だ。
匿名の執筆者たちによって作られている。現在の執筆権限を持つユーザ総数は44万人、過去30日間の日本の執筆者は1万人強とのことだ。重複や未使用のアカウントを考慮しなければ、約70万の記事は、約44万人によって記述されたのだ。(src)

この数字をどう捉えるかは置いておこう。

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話を長妻昭氏のWikipediaページに戻す。

氏のページは、なかなか充実している。しかし、妙に批判的な内容が多いことにも気付くと思う。そしてフッタのあたりには、ご丁寧に多量の脚注でソースが記載されている。

ここで、レポートをWikipediaで作るような人間はこう思ってしまう。
「長妻昭はこんな人間なんだ」と。



・・・もう一度脚注を見てみよう。

妙に、マスコミやニュースサイトが多くないだろうか。

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マスコミはインターネットを「匿名でソースの信用がないもの」という位置付けにしたがる傾向があるように見える。しかし、各局のニュースを見れば、「ある関係者は言った」「ある議員はこう話す」「ある記者は答えた」といったように、匿名で、ソースが曖昧な情報を、何らかの方向性を付けて"誤解が生じるように"流していることが多いように思う。ねつ造とまで非難される報道もある。

若い人には多いだろう。
声高らかに「マスコミは下らない」って言う人が。

そんなマスコミをソースとして、信用して良いのだろうか?


なら、インターネットサイトは違うのか?っていうと、そういう話ではない。質の悪いニュースサイトやブログも多い。英語の訳がおかしくて嘘を流しているサイトもあれば、マスコミ同様ソースが曖昧でとても読むに耐えないサイトもある。無論、ここも含む個人ブログなんて半信半疑で読むしかない。

では、Wikipediaなら安心なのか?・・・やっぱり、簡単に信用してはいけないのだろう。なぜなら、情報が曖昧なソースで書かれた情報が存在するのだから。


しかし、やがては「Wikipediaにこう書いてあるから」という理由でWikipediaをソースとした『事実』が作られていくことだろう。

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理想で言えば、絶対のソースがあれば問題は解決だ。「そこにあることが事実で、そこにないことは無い」でも、それは不可能な話だ。

続く理想は、Wikipediaが善意の無数の人間によって誠実に書かれ、思想的な偏りや誤った認識が修正されることだ。
それも、少なくとも現状の日本のWikipediaの現状を見る限り難しそうだ。

いずれにしろ、ソースを情報の受け手が検証するのには限度がある。

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僕の電車での思考は、結局、教科書的な「情報の取捨選択をすることが求められている時代なんだなぁ」と再認識して終わっている。

結論も主張もない、ただそんな話。


情報弱者は可哀想かもしれないが、情報に溺れた者も可哀想だ。


p.s. 本文のフォントを変えました。
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